日本盲教育史研究会

掲載:2017年12月02日

最終更新:2017年12月02日

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会長挨拶バックナンバー(2017年12月02日から)

ようこそ「盲史研」ウェブサイトへ ――盲史研の更なる発展にご意見を――

日本盲教育史研究会会長 引田秋生

引田秋生会長

1 盲史研へようこそ

 盲史研のホームページにおいでいただきありがとうございます。

 盲史研は6年目を迎えましたが、皆様のご協力ご支援のお陰で第6回の研究会開催時点で、190名弱の会員数となりました。これまでの活動の反省も踏まえて、ミニ研修会の在り方をフィールドワーク中心のコンパクトな研修会に変えることとしました。新たな形でのミニ研修会の最初の年となりました。

 2017年は、5月21日の石川県での第5回ミニ研修会in金沢、10月21日の京都での第6回総会・研究会はそれぞれ55人、53人の参加者を得て盛況のうちに終了しました。現地実行委員会、会員の皆様、後援団体の皆様のご協力のもと成功裡に実施できましたことに感謝申し上げます。詳しい報告はこのホームページの活動紹介に掲載されていますのでお読み下さい。

2 第5回ミニ研修会 in 金沢、第6回研究会(京都)を終えて思うこと 

 新たな形でのミニ研修会は、地元金沢の金沢星稜大学講師(元・石川県立盲学校教諭)松井繁氏のご活躍に負うところが大です。特に新しいスタイルの、ランチョンセミナーとそれと関連づけたフィールドワークの成功は、今後のミニ研修会の在り方に大きな影響を与えたものでした。セミナーでの二本の講話「竹川リンと支えた人々」「奥村三策の偉業及び道を開拓した石川県の視覚障害者達」の講話の直後に、バスで関係の史跡の見学をしたのですから参観者にとって、大変興味深いものとなりました。現地で更に説明を受け、納得することしきりのフィールドワークでした。地元のボランティアグループの支援もあり、新たなスタートにふさわしい内容となり参加者の好評を博しました。

 京都の第6回研究会は、台風が接近しており、参加数がやや不安となりましたが、何とか例年の参加者数が確保できました。金沢でお世話になった松井繁氏には、引き続いて研究会でもメインの記念講演をお引受けいただきました。また、会場の提供を快諾いただいた京都府立盲学校校長中江祐氏には、盲史研始まって以来の会場校校長挨拶をいただきました。御自身の学生の頃の研究にも言及され、「盲教育史のようなジャンルがあることを知らなかった、こういうことを研究していたら別の人生になっていただろう、盲教育の現況に照らし、今実践していることが将来歴史として語られる時が来るだろう。そういう意味では歴史研究の果たす役割は大きい」と語られました。このような中江氏のお考えは、次に述べる京都府立盲学校資料室の整備に大きく反映されているものと思いました。

 研究会の前に行われた資料室の見学は、例年とは違った意味合いを持っていたと思います。「思いがけない形で得られた一千万円ほどの経費で賄われた」という資料室整備事業はほぼ完了したということでしたが、参観者からは感嘆の声があがった見学会でした。新たに購入した移動式書架や展示ケースに納められた京都府文化財の資料群、ほぼデジタル化が完成した明治期の公文書。手に取ったり、触ったりして実物を確認しながら、担当者の岸博実氏の説明は、正に午前の一つの研究発表にふさわしいものでした。それ故に、総会や研究会での、資料の保存や活用を巡る議論にも繋がっていったものと思われます。

 また、松井繁氏が講演の中で主張された、盲教育の発展継承のために大学の教職科目の中に盲教育史を位置づける、盲学校でも視覚障害者の歴史を教えることが大切だとの提案は、盲史研としても積極的に受けとめ具体的な提言にまとめ、然るべき部署に働きかけていくことの必要性を感じました。同時に、そのシラバスも含めた新たな研究の必要性も提起しているように思えました。盲教育史関係者の研究成果の一つでもあるとも思いますし、更に、各県の盲教育史を副読本にまとめ、盲学校での教育や指導にも役立てることが要請されるのではないかとも思います。

3 鳥居篤治郎の国際性とエスペラント、バハイ教

 田尻彰氏の研究発表では「鳥居スピリットの原点」「世界の鳥居の存在感と広い見識」等についてお話しがありました。私は自分自身が、退職後エスペラントを学んだ経験やエロシェンコの生誕125周年記念事業に携わった経験から、鳥居篤治郎の国際性については、あまり言及されることのないエスペラントとバハイ教からの影響についても考えてみる必要があると感じています。

 エスペラントについては、鳥居は東京盲学校の師範科で当時留学していたエロシェンコと出会いエスペラントを勉強し始めました。鳥居の著書「すてびやく」から鳥居自身の言葉を紹介します。
「私は在学中にこの人(エロシェンコ)からエスペラント語を習いました。周囲の者たちからは何やかやと言われて大分に反対されたものですが、今となってはやはりやっておいてよかったと思います。エスペラントをやったお陰で、その後、各国の盲人事情を調べるのに大変便宜を得ているからです。」(31頁)

 日本点字図書館理事長の田中徹二氏は、鳥居篤治郎が日本点字図書館で外国人とエスペラントで流暢に話しているのを聴いたことがあると証言しています。生きた言語として通用しているのに驚いたとのことです。鳥居篤治郎は、「点字エス和辞典」や「点字エスペラント講習読本」も出版しています(1923年)。また、同年に岩橋武夫と共に、日本盲人エスペラント協会を設立し、同時に世界盲人エスペラント協会に加盟しています。戦後初の日本エスペラント大会(京都)の盲人分科会には,岩橋武夫やアグネス・アレキサンダー等と共に参加しています。そして、1966年に日本盲人エスペラント協会が再建されましたが、その時理事長を勤めています。これは1954年に岩橋武夫の後を受けて日本盲人会連合の会長となり、1961年には京都ライトハウスを設立し館長になった後のことです。

 また、若いときにクリスチャンになったこともあり、一時は仏教にも関心を持ったこともあるとしながらバハイ教については次のように述べています。
「たまたまエスペラントの持つインターナショナリズムの影響を受けつつあった時に、私はミスアレクサンダーのグループを通じてバハイの教えを知りました。(中略) バハイの教えは、一切の偏見を捨てさせるにあります。聖書も読みましたが、一番わかりやすいのは、バハイだと思いました。殊にバハイは他の宗教に対して排他的でなく。お互いを尊重します。(中略)私のように目が見えませんと、物の差別がわかりにくい。差別がわからないというのは、一切が無差別だということに通じます。けだしバハイが、私の一生を通じて支配する教えとなった所以かも知れません」(すてびやく32頁)

 今でも、京都のバハイの人達は、鳥居篤治郎やアグネス・アレクサンダー、エロシェンコ、望月百合子が登場する朗読劇を上演したりすると聞きます。

 エスペラントやバハイ教を通じて世界の盲人や文化人、社会運動家達と交流のあった鳥居は晩年になっても彼の思想や活動にその影響が強く反映していると思われます。アナキスト的思想からその後バハイから遠ざかっていくエロシェンコや望月百合子とは対照的で興味深いものがあります。

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英語:Japan Society on the History of Blind Education

エスペラント:Japana Societo pri la Historio de Blindul-Edukado(ヤパーナ ソツィエート プリ ラ ヒストリーオ デ ブリンドゥール・エドゥカード)

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