掲載:2024年06月30日
最終更新:2024年06月30日
案内終わり♪
2024年5月25日(土曜日)にミニ研修会を新潟県上越市高田において行ないました。今回は第10回の節目の会であるということもあり、原点に戻って「少人数で現地の史料にじっくりと触れる」ことを目的に行ないました。そのため、参加資格も会員中心に絞りました。会員以外の方でも参加を希望される方がおられたのではないかと思いますが御容赦ください。
この地は瞽女文化の豊かな歴史を持ち、<盲唖併置>型ではない<訓曚学校>を生んだ地です。能登半島地震によって<史料保存>の課題に直面した地域でもあります。「瞽女ミュージアム」や高田盲学校の資料展を開催中の「上越市立歴史博物館」等の見学・研修を中心とした内容をお知らせします。
09時30分 | えちごトキめき鉄道(旧JR) 高田駅 集合・受付 |
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09時45分 | 高田駅前を出発、徒歩移動 |
09時55分 | 高安寺(大森隆碩の墓碑)見学 徒歩移動 |
10時10分 | 瞽女ミュージアム高田 瞽女史料見学・動画視聴 徒歩移動 |
11時30分 | アートホテル上越で昼食・休憩 徒歩移動 |
13時00分 | 上越市立歴史博物館 高田盲学校資料展見学 タクシー移動 |
14時30分 | 上越市福祉交流プラザ 高田盲学校顕彰コーナー見学 |
15時40分 | 同施設内で解散、タクシー移動 → えちごトキめき鉄道高田駅 |
当日は会員、及び家族の方が17名参加されました。受付が済むと早速出発です。心配された前日の雨も上がり爽やかな晴天の中、高安寺までは僅かな距離であっという間に着きました。ここには高田訓曚学校創立者、大森隆碩の墓碑があります。前日の下見では、鬱然とした林の中を奥まった墓所まで行きましたが、当日はお寺の計らいで、本堂の床下を通り抜けさせていただいたため難なく着きました。
墓石には「心事未ダ必ズシモ盲セズ」という大森の言葉が刻まれていました。これは「眼の病で視覚を失ったものは、視覚が機能しなくなったけれども、心の中まで見えなくなり、何も分からない状態になっているのではない。教育すれば必ず人間として生きられる」という大森の信念を表したものです。大森は「技術修得だけではだめだ。人間を育てなければならない。・・・教養を積んで教育しなければならない」と述べています。現代の私達も深く傾聴すべき言葉だと思います。なお、大森の娘・大森ミツは東京盲唖学校の訓導となり、膨大な『言海』を点訳しました。これも凄いことです。
瞽女ミュージアム事務局長の小川様は、高安寺まで出迎えてくださり大森の墓についての説明もしてくださいました。高安寺を出てしばらく歩き、江戸の町並みを彷彿とさせる北国街道・別名加賀街道を横切ると瞽女ミュージアム高田に到着です。ここは雁木と呼ばれる雪を防ぐアーケードのようなものが連なっている古民家の中にありました。入り口を入ると、角30cm程の黒々とした大黒柱に支えられた太い梁や高さ10m程の吹き抜け天井があり、明治から大正時代の商家を思わせました。このミュージアムは、2009年に高田瞽女の文化を保存・発信する会が設立され、2013年には、NPO法人として組織化、2015年に瞽女ミュージアム高田として開館した施設です。それまでの経緯を以下に記してみましょう。(瞽女ミュージアム高田の公式サイト「当法人にまつわる歩み」に基づき作成した当日の配布資料を参照、一部改編)
民俗学者の市川信次は、師の柳田國男のすすめで、瞽女を研究しながら親身に世話をした。子息の市川信夫夫妻がそれを引き継いで、貴重な記録写真と史料、瞽女をきっかけとして交流した人々の記憶を残した。1964年 高田で最後の瞽女親方杉本キクイと、養女の杉本シズ、弟子の難波コトミの3人が、旅巡業をやめる。同年12月、画家斎藤真一は、高田の杉本キクイを訪ね、彼女の人間性に深く感銘する。瞽女の旅路を追体験する中で、多くの作品と著作を発表する。
1970年 文化庁は瞽女唄と杉本キクイを記録保存を講ずべき保持者に選択し、無形文化財に指定した。東京での「越後瞽女日記展」が評判となり、瞽女を主題とする映画・演劇が次々に発表される。1983年 杉本キクイが亡くなり、残された二人も、胎内やすらぎの家に入所するために、高田を離れる。
1997年 「斎藤真一が描く高田瞽女 越後瞽女日記展」を上越市立総合博物館で開催。
2009年 市川信夫をはじめとして、瞽女と斎藤画伯に心を寄せる有志が集まり、上越市への寄贈を求める署名運動を行う。さらに瞽女についての啓発活動のため「高田瞽女の文化を保存・発信する会」を設立するとともに、雁木町家を会場として池田コレクション展覧会を実施。以降、国や上越市、民間財団等の助成を受けて、瞽女文化の発信を続ける。
2012年 上越市は寄贈を受けて、「池田敏章コレクション・斎藤真一と瞽女」展を開催する。2013年 本会は常設展示を目指してNPO法人を組織し、関係先との協議を進める。2015年 その中で、作品展示と資料公開のために、雁木町家「麻屋野」の利活用を図り、上越市歴史的建造物補助事業を受けて、第1期整備改修工事を実施する。
以上のような経緯を経て開設されたのが瞽女ミュージアムです。前述のような史料が所狭しと並べられていました。小川様と当館係の渡辺様による説明を聞きながら、最後の瞽女さん達の記録動画を視聴しました。雪深い山道を連なって歩く瞽女達、哀切極まりない瞽女唄、いずれも感慨深いものでした。また、それらの瞽女さん達を村ごと、家族ごと喜んで迎えたという越後の風土に思いを馳せました。
瞽女の研究成果や資料として次のようなものが展示・販売されていました。(前傾配布資料参照、一部改編)
CD「瞽女唄」復刻版 1991年に上越市発足20周年記念の一環として作成・販売され好評を博した高田瞽女の瞽女唄を収録した5枚組のCD「瞽女唄」の復刻版・再版
冊子【越後瞽女からの発信】 瞽女ミュージアム高田開館7年目にして作成した初オリジナル冊子。A4版 全30ページ瞽女さんの事、瞽女へ携わった人々の事等々
高田瞽女文化の調査記録「平成版 瞽女宿の記憶」 高田瞽女の文化を保存発信する会では、瞽女の旅路をなぞるように、街道の風景や集落の家並みを訪ねてきた。そして、平成25年度には文化庁の補助事業で往時の瞽女宿を再訪し、瞽女の記憶を取材することができた。それをまとめたもの。
午前の見学を終えほっと一息。アートホテル上越のアレーグロでバイキングに舌鼓を打ちました。会食を楽しみながら、あちこちで瞽女ミュージアムの素晴らしさに会話の花が咲きました。
上越市立歴史博物館では、3月29日〜6月16日まで特集展示「高田盲学校資料展」を開催していて、タイムリーな見学となりました。玄関先で学芸員の荒川様が出迎えてくださり、大変熱のこもった以下のような説明をしてくださいました。(上越市立歴史博物館の公式サイトに基づき作成した当日の配布資料により、一部改編)
「私立高田訓曚学校」(後の高田盲学校)は、日本で3番めの盲学校として明治24年(1891年)に設立された。本展では、当館が参画した「守れ文化財 モノとヒトに光を灯す」事業(文化庁Innovate MUSEUM事業、中核館は新潟県立歴史博物館)の成果と共に、視覚障害者教育の先駆けとなった高田盲学校の歴史や貴重な教材資料について紹介したもので、主な展示資料には、次のようなものがある。
凸字印刷による教材
特殊な紙に押し刷りした凸字印刷による教材。明治期、上越市所蔵、大きさ:縦25.0cm・横32.6cm、イソップ童話等が印刷されている。これは明治2年(1869年)に「西洋では厚紙にほどこした凸字が使われている」と、日本に紹介される。明治9年(1876年)には、津田仙(津田梅子の父)が視覚しょうがい児に凸字の書を教え、職業を得られるようにするための「楽善会」を設立することを「農業雑誌」に記しているが、それらの情報を基に作成されたものと思われる。「訓盲雑誌」第2号
明治23年(1890年)に創刊された凸字印刷雑誌の第2号(同年5月1日号)。発行は、浅草・大庭伊太郎 。凸字を印刷した厚紙を八つ折りした8ページの誌面に「塙保己一伝」などが掲載されている。カタカナ横書きで最初は左から読み、行末で次の行は右から読むという型式で、工夫の跡がみられる。(明治23年(1890年)、上越市所蔵、大きさ:縦14.3cm・横22.1cm、紙製)漆文字(凸文字)による教材(ひらがな)
厚紙で切り抜き文字を作り、漆を塗って木片に貼った「漆文字」。片かな、平がなの50音、漢字が500枚以上、整理箱に収められている。高田盲学校の名誉教員(外部講師)の松本常が明治27年(1894年)に制作したという。(明治27年(1894年)、上越市所蔵、大きさ:縦26.6cm・横47.0cm、木製)盲人用書写器(墨字筆記用枠)
小さなマスの中の四隅を意識し、1文字ずつ書くことができる。凸字で字の形を覚えたあとに、自ら書くための道具。4列12行、48マスで構成されていることをふまえると、いろはにほへと ちりぬるを(12文字)わかよたれそ つねならむ(11文字)うゐのおくやま けふこえて(12文字)あさきゆめみし ゑひもせす(12文字)という、いろは47字の練習に使用したのかも知れない。(明治期、上越市所蔵、大きさ:縦20.5cm・横6.7cm、金属製(銅製))点字練習器
本資料は戦後の資料だと思われるが、明治24年(1891年)にひらかれた上越教育品博覧会に、私立訓曚学校より算盤や凸字などとともに「盲人字ヲ書クニ用ユル器械」が出品されている。また明治34年(1901年)の「高田栞」によると、明治26年(1893年)ころより同校で「点字器械」を使用するようになったという。また、教師の朗読に従って、器械の穴に針を穿ち点字としたことや、東京盲唖学校の生徒と書状を往復したなどの記載がみられる。(戦後、上越市所蔵、大きさ:縦10.0cm・横29.4cm、木製)
このような史料の中に1879年のものとして、「明治十二年二月始メテ日本ニ来リシ英国點字 高田盲学校所蔵」と毛筆で記載された「アルファベットの点字一覧表」が置かれていました。これが事実とすれば大変な驚きです。小西信八が東京の教育博物館からアーミテージの著した「盲人の教育と職業」に載っている点字を紹介したのが明治20年頃ですから、それよりも8年も前のことになります。このような文字が高田盲学校の前身である私塾に伝わっていたのか、それとも明治12年に日本へ伝わったものが当博物館に展示されているのか。明治12年に高田に伝わっていたとすれば、前島密あたりが伝えたのか。東京の楽善会訓盲唖院設立に尽力した前島密は上越の出身ですから・・・興味は尽きません。
また、展示場の壁面には、幅1m長さ5m以上もあろうかと思われる高田盲学校の沿革史が掲げられていました。これは「瞽女ミュージアム」の所で紹介した市川信夫氏が手書きしたものです。氏は本歴史博物館の初代館長でもあり、「ふみ子の海」の著者としても有名です。その筆跡に市川氏の高田盲学校に対する限りない愛情を感じました。ちなみに、ふみ子は高田盲学校を卒業後、東京女子大学へ進み『光に向って咲け(齊藤百合の生涯)』岩波新書を著した粟津キヨをモデルとしています。
盲史研の会員の中には、これらの資料に詳しい方々も何人かおられたので、荒川様の説明に対して更に詳しい説明を付け加えてくださる場面もありました。お互いに情報交換ができ、荒川様から「皆様のおかげで返って深い学びができました」というお言葉もいただきました。これもミニ研修会の一つの成果かなと嬉しく思った次第です。
この施設は、平成18年(2006年)に廃校となった高田盲学校の校舎を保存・改修して作られたものでした。そのため、盲学校当時の様子が良く分かり、児童生徒の声が聞こえてくるようでした。やはりここでも玄関先で、高田文化協会事務局長の宮ア様が出迎えてくださり、大変熱心に資料の説明をしてくださいました。高田盲学校顕彰コーナーは旧図書館を活用したもので、多くの点字図書や研究物、教材・教具等々が、きちんと整理され保管されていました。そこには、市川信夫氏を初めとする教職員の方々、及び関係者の熱い思いが伺えました。
博物館の見学に合わせて、上越市福祉交流プラザの高田盲学校顕彰コーナーを見学することにより、高田盲学校の歴史をより深く学ぶと共に、その功績の大きさを痛感しました。また、そのような史料を大切に保管し、後世に伝えていく営みをしている高田の文化にも感銘を覚えました。私達盲教育史研究会もそのような営みに学びたいものです。
当日は晴天に恵まれ、予定通りの素晴らしい研修会を行うことができました。17名という少人数での開催としたことも活動しやすく、深い学びをすることに繋がったのではないかと思っております。大森隆碩の墓には関係者の方々が花を手向けました。また、高安寺のご住職には「熱中症に気をつけてください」と、冷たいお茶やハンカチまでいただきました。そして、瞽女ミュージアムの小川様・渡辺様、歴史博物館の荒川様、高田文化協会の宮ア様には、大変心温まる説明をいただきました。更に市川美喜恵様(市川信夫氏の奥様)には、終日ご一緒いただいて、親しくお話を伺うことができました。このようなところに、瞽女さんを大切にしたことやいち早く盲学校を設立した高田の風土や文化が継承されているのだなと思いました。
私達盲教育史研究会では、昨秋ミニ研修会をまとめて、10周年の記念誌を発行しました。そのタイトルは「盲教育史百触の旅」です。そこには、その土地土地の「文化・史料・人々の思い」等々、いろいろなものに「触れ」研修を深めたいという思いが込められています。まさしく今回のミニ研修会は「百触の旅」そのものでした。
この研修会には上越教育大学の学生さんも参加くださいました。大変嬉しいことです。最後に、その感想を載せてまとめとします。
5月25日、夏の足音が感じられる穏やかな気候のなかでミニ研修会が行われた。今回研修の地として選ばれた新潟県上越市高田は、江戸時代初頭に築かれた高田城の城下町として栄えた町だ。かつて街道の要所として人とモノが往来した北国の町は、今もなおその風情を残している。多くの町家と雪深い地域性が育んだ雁木の通り、そしてそこで紡がれてきた文化には「共に生きる社会」に思いをはせたくなる歴史の足跡があった。
またこの地には高田盲学校という日本で3番めにできた盲学校があった。その創設者である大森隆碩(おおもりりゅうせき)は高田の出身である。今回の研修会では上越市立歴史博物館の企画展「高田盲学校資料展」や上越市福祉交流プラザにある高田盲学校の顕彰コーナーを訪れた。開校当時に使われた凸字印刷の教材や、閉校直前まで用いられていただろうサーモフォームで作られた地図教材などが展示されている。当時教壇に立たれた方々の努力や向学心、そして目の前にいる学び手へのあつい思いがこちらまで伝わってくるようだった。私は盲教育という分野のことを全く知らない人間であるため、展示物すべてが新鮮に感じられた。その中でも特に印象的だったものがある。高田盲学校資料展には市川信夫先生が作成された「高田盲学校歴史年表」が壁面に飾られている。その末尾には「盲教育に情熱かけたありし日も歴史のなかに眠るきようかな」という短歌が記されていた。私はこの言葉に胸を打たれてしまった。創設者の大森隆碩は「視力は失っても、心の中までは盲になってはいけない」という信念のもと学校を建てたという。そうした精神性が学び舎に関わる人を突き動かしていった。この学校で教えた人々がどんな思いで子どもたちや地域社会と向き合ってきたのか、語りつくせないほどの情熱があっただろう。しかしそれも時間の経過と共にあせていってしまうとうたう言葉の切なさには筆舌に尽くしがたいものがあった。
研修会をとおして盲教育という新たな世界に触れられたと感じている。それによって今と昔を時間という線でつないで考えることができた。しかし世の中には眠ったまま誰にも起こされないものもたくさんあるのだろう。この会をきっかけとして世の中にある様々なものごとへの関心を高く持ち、吟味し、より深く学んでいきたい。
本文ここまでです。
ナビ終わり♪
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英語:Japan Society on the History of Blind Education
エスペラント:Japana Societo pri la Historio de Blindul-Edukado(ヤパーナ ソツィエート プリ ラ ヒストリーオ デ ブリンドゥール・エドゥカード)
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