掲載:2022年12月04日
最終更新:2024年08月04日
案内終わり♪
橋さんの「愛情の庭」、相原さんの「私の物語」に関する話を聞き、戦時下の東京盲学校や当時の視覚障害者の様子を知ると共に、石川倉次氏の足跡等を訪ね、浜松と点字の関係についても知識を深める。
平成25年5月18日(土曜日)
10時から18時30分まで
浜松市立中央図書館
石川倉次氏生誕地跡
静岡県立浜松視覚特別支援学校
講師 3人
講師介助者 4人
日本盲教育史研究会会員 22人
浜松視覚特別支援学校関係者 12人
手話通訳者 5人
計 46人
10時00分 | 浜松駅新幹線改札口 集合 ・ 受付 |
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10時00分から10時20分 | バス、徒歩にて移動、浜松中央図書館 |
10時20分から11時10分 | 「石川倉次先生」記念碑見学、記念写真撮影 資料閲覧 |
11時10分から11時50分 | 移動(徒歩にて10分程) 途中「時代舎」(視覚障害関係の古書が多い。)見学 石川氏生誕地跡見学 |
11時50分から12時30分 | 移動(バスにて30分、徒歩5分程) 浜松視覚特別支援学校 |
12時30分から13時30分 | 昼食・休憩(於:浜松視覚特別支援学校会議室) 本会会員、杉浦逸雄氏から「小杉あさ」「住岡芳太郎」に関する資料をいただき、 |
13時30分から13時40分 | 引田会長挨拶、講師紹介 |
13時40分から13時50分 | 「六星照道」の書について伊藤説明 |
13時50分から14時50分 | 「愛情の庭」について講話、質疑 橋タカ子氏 |
14時50分から15時00分 | 休憩 |
15時00分から16時00分 | 「私の物語」について講話、質疑 相原夏江氏 |
16時00分から16時50分 | 「浜松と点字」について講話、質疑 特定非営利活動法人六星(ウイズ)代表理事 斯波千秋氏 |
16時50分から17時05分 | 大橋副会長閉会の挨拶、諸連絡 「六星照道」を背景に記念撮影 |
17時20分から18時20分 | 移動(徒歩5分、バスにて50分程) |
18時30分 | 浜松駅にて解散 |
ちょっと急な石段を登ると、中央図書館入り口。爽やかな木陰の下に当記念碑がある。高さ2メートル、幅1メートル強、厚さ20センチメートル程度の立派な石碑。表には「頌徳」(政友会総裁、後の総理大臣、犬養毅)、「日本点字創始者 石川倉次先生記念碑」(政友会幹部、後の農相、山崎達之助)の書、裏には、「頌徳記念碑建立趣旨」と建立者氏名が記されている。この碑は、昭和5年5月25日、当時の私立浜松盲学校(浜松市鴨江町)に建てられたもの。その後、浜松大空襲によって盲学校が焼失したため、盲学校は昭和21年に浜松市追分町に移転。頌徳碑は昭和24年に同敷地内に移転した。しかし、同校が手狭になったため昭和39年、三方原の北部へ移転するのに伴い同校では浜松市へ寄附。市では市民の目に触れやすい場所に設置したいという旨から中央図書館へ設置、現在に至っている。
記念碑前で集合写真を撮った後、斯波(しば)氏の説明を聞きながら十分に触察したり、観察したりした。図書館内には、石川氏や中村京太郎氏に関する貴重な資料があり閲覧した。十分な時間がなかったため、心残りではあったが、後ろ髪を引かれる思いで次の目的地へと向かった。
浜松城を右手に見ながら「この辺を倉次少年も歩いたんでしょうね」と語り合いながら生誕地跡へ向かう。途中「時代舎」という古書店があり、「視覚障害関係の掘り出し物がある」と話すと、興味を示す人多くしばし立ち寄る。中には「また明日来る」といった熱心な方もおられた。
生誕地跡は、浜松城から西に300m程度離れた所。北に浜松北高(旧制浜松一中)、西に浜松市立高(旧制浜松高女)があり、昔からの文京区。多分、倉次の学んだ藩校「克明館」もこの辺にあったはずである。現在は「伊藤氏宅」となっており、石川氏の生家はない。ただ、たまたま当家の御主人がおられ、敷地内に入れて下さった。すると建物は違っているものの、百坪余の敷地は多分当時と同じではないかと思わせる形状であった。また、門先から細い道が「鈎の字」に曲がっていて当時の武家屋敷跡がこの辺一体に立ち並んでいたことを彷彿とさせた。
浜松北高からバスに乗って、一路「姫街道」を浜松視覚特別支援学校へ。この街道名は、江戸時代「新居の関所」が女性に対して厳しかったためその脇街道として女性達が多く利用したことに由来するという。浜松視覚特別支援学校は、三方原の北部、武田信玄と徳川家康が戦った古戦場の辺りにある。
この戦いで惨敗した家康は、命からがら浜松城へ逃げ帰るが、途中空腹のため茶店で小豆餅を食す。慌てているので代金も払わず立ち去ったところ、店の老婆が追いかけてきて代金を取ったという「銭取り」。城内に逃げ込んだ家康は、赤々とかがり火を炊かせ、太鼓を打ち鳴らせて城兵が多くいるように偽装し、城に通ずる鹿谷に布の橋を架ける。追跡してきた武田兵は、その布橋を夜目にて見間違え、多くの将兵が鹿谷に落ちて死傷したという。この戦で亡くなった両軍の将兵の霊を慰めるために「遠州大念仏」が始まり、今でもお盆時、盛大に行われている等々の話をしながら「布橋」「銭取り」「小豆餅」というバス停を通って、姫街道車庫(浜松視覚特別支援学校最寄りのバス停)へと向かった。
この書は「浜松視覚特別支援学校」の会議室に掲げられている。右から「六・星・照・道」と温かい楷書で書かれている。左端に「八十六翁」とあるので、石川氏、最晩年の書である。この書は、同様のものが「筑波大附属視覚特別支援学校」と「日本点字図書館」にあるが、それぞれに少しずつの違いがある。説明に当たった伊藤によると「浜松のものが一番良い」とのことであるが、それは如何なものか、定かではない。
書の左には、石川氏の写真が掲げられている。これは昭和12年頃、何かの式典の折りに会場の玄関前で、小西氏と共に撮った写真と同日に撮影したものではないかと思われる。本体はかなり劣化しているため、大切に保管し複製を掲額してある由。これらの前で多くの方々が記念写真を撮っている様が印象的であった。
昭和13年4月 | 東京盲学校師範部甲種鍼按科入学 |
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昭和16年3月 | 東京盲学校同科卒業 帝国女子医専整形外科に勤務 |
その後 | 和歌山盲唖学校、平塚盲唖学校に勤務 平塚盲唖学校で終戦を迎える |
その後、結婚され御主人の郷里、浜松に住む。
家庭に入られ俳句などを習う。
東盲時代 「和歌の会」結成。窪田空穂が学校のすぐ近くに住んでおられ指導して下さった由。
昭和18年3月 | 平塚盲唖学校中等部鍼按科卒業 |
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昭和18年4月 | 東京盲学校中等部音楽科2年次に編入 |
昭和21年3月 | 東京盲学校中等部音楽科卒業 |
昭和21年4月 | 東京盲学校師範部音楽科入学 |
昭和24年3月 | 東京盲学校師範部音楽科卒業 |
昭和24年4月 | 浜松盲学校勤務 |
昭和62年3月 | 浜松盲学校退職 |
白杖づくり、視覚障害者のための補助具等の販売をしていたが、20年ほど前ウイズという日本で初めての視覚障害者のための小規模授産所を立ち上げた。
「ウイズ」という名前が示すとおり、障害者のために何かするのではなく、共に歩むことで皆が住みやすい社会を作ろうというのが設立理念である。
一方、視覚に障害がある海外からの留学生を積極的に受け入れたり、海外での活動を行ったり、広く視覚障害者の福祉向上に尽力されている。
その間、石川倉次や中村京太郎のことなどについても調べ、浜松と点字の関係について研究を続けておられる。
この講演は質問形式でなされた。
Q 本を読んでいない方も多くいるので、橋さんの略歴、特に東盲へ入学することになった理由や卒業後の生活について伺いたい。
A 栃木県足利生まれ。高等女学校の時、字が見えなくなって足利盲学校へ入った。先生になりたくて東京盲学校へ行った。卒業後、東京女子医専、和歌山盲唖学校、平塚盲唖学 校に勤務し、そこで終戦を迎えた。
Q 日記はいつ頃からつけていたか。また、毎日つけていたか。
書籍として出版しようとした経緯は。御自身の生活の記録を公にしたきっかけは。
A 思いついた時だけにつけていた。文を書くのは好きだった。
母の知り合いで保証人になって下さった細島さんという方が興亜書房に勤めていた。卒業時、お礼に伺ったところ「盲学校や盲女性のことについて書いてみないか」と勧められた。そこで、1年ほど掛けて今まで書きためていた日記を校正し直し出版した。
Q 西條八十や川端康成の序文、三岸節子の装釘は、どのような関わりがあってなされたものか。
A 出版の際、「無名の盲女子が書いた本など売れないから」ということで、細島さんが川端先生達に頼んで下さった。川端先生はお忙しい中、満州までもゲラを持っていって下さり丁寧に読んで下さったとのことである。
Q 書籍のタイトルは、橋さん御自身が決められたものか。あるいは出版社の編集者か。
A 細島さんが決めた。
Q この書籍に対する周囲の反応は。当時の出版年鑑に掲載されているので、読者は視覚障害者だけではなかったろうと推察する。例えば、読者からの手紙が寄せられたとか、家族、親戚、友人等の感想はどうだったか。
A 出版時、和歌山盲唖学校勤務だったが、先生方に賞賛された。また、足利の書店にも並べられたと聞いたが、特に反響はなかった。
Q その後、小説や短歌集などは出版されたか。
A 平成17年に俳句集「花莚」を東京の安楽城出版から発行した。
Q 東京盲学校は、当時何人ぐらいの児童生徒がいたか。また、中等部以上は全国各地から集まっていたのか。
A 師範部は30人。全体では250人程度。小学部は東京周辺が多かったが、中等部以上になると全国から集まっていたように思う。
Q 東京盲学校の当時の寄宿舎の部屋構成は、学部をまたいで編成されるのが基本だったか。師範部の学生は橋さんのように、「お姉さん」あるいは実質的な「教師」としての役割が期待されていたのか。
A 寄宿は5棟で大部分は男子寮。全て縦割りで一部屋15畳に6〜7人が、家族のような環境で暮らしていた。この制度は大変良かったように思う。教職に就いてから役立った。
Q 師範部の講義の中で、哲学概論の得能教授の影響も大きいように感じた。楽善会訓盲院当時、大蔵省印刷局長で凸字教科書の原版作製に協力した人で得能という人がいたが、珍しい苗字なのであるいは親戚かなと思った。講義でこのことに触れたことはあったか。
A 分からない。
Q 今思うと当時の東京盲学校には錚々たる先生方がおられたように思うが、名物教師等、印象的な先生について伺いたい。
A 大河原先生は大変几帳面な先生であった。
Q この本から、当時かなりレベルの高い講義がなされていたように思う。特に印象的な講義があったら伺いたい。
A 足利盲学校とは随分違った。足利は慈善事業的な色彩が強く、資金不足の際など、生徒がちり紙を売りに歩いたりして、その助けとしていた。しかし、東京盲学校は「文部省直轄の官立盲学校」だとよく言われ、きちんとした授業を行っていた。
Q 記念式典の折、石川倉次先生が元気に御挨拶された様子が書かれているが、橋さんが点字を習い始めたときの感想とその日本点字を翻案した石川倉次先生に対する想いを改めて伺いたい。
A 白髪の老先生であった。お話しをされ降段される時「皆さんお元気で。私は死ぬまで死なないからね」と仰ったのが、大変印象的であった。
Q 卒業時、寄宿舎の分散会で伊澤先生や大河原先生達が印象的な挨拶をされた様子が書かれているが、この先生方は寄宿舎の舎監として、師範部の学生にも普段から接していたのか。例えば、舎監室に行って語り合うことも可能だったのか。
A 私は大河原先生が大好きで、よく舎監室にお邪魔してお話しした。
Q 女子で「和歌の会」を結成したことが書かれているが、どのくらいの人数だったのか。また、誰に習ったのか。橋さんは、その後も俳句をされ、指導もされていたと伺ったが、視覚障害者に対する短歌や俳句の効用について考えを伺いたい。
A 何人くらいいたのか覚えていない。窪田空穂先生が学校のすぐ近くにお住まいで、時々教えに来て下さった。当時は、そんなに偉い先生とは知らずに習っていた。今思うと、もっとしっかりやっていれば良かったと思う。60歳頃から時々東京へ通って俳句を習った。短歌や俳句は、感覚で捉えたものを心で詠むことが大切。視覚に障害がある人は、視覚以外の感覚、第六感なども踏まえて、心に映ったままを表現すればよいと思う。短い詩型なので、視覚に障害がある方にも大変適している。
Q 東盲には、ロシアからの留学生エロシェンコ以来、エスペラントを学ぶ会があったと思うが、この当時もあったか。それとも戦時下で禁止されていたのか。また、エスペラントについて聞いたことがあったか。
A 当時はない。また、聞いたこともない。
Q 現在から振り返って、東盲での生活、戦争中の生活について、まず思い出されるのは何か。また、当時に対してどのような印象を持っているか。
A 戦争一色であった。生徒の生活も戦争に従っていた。当時も皆一生懸命頑張っていたことは事実。すっかり世の中が変わってしまった。「陛下の赤子」を「せきし」と読める人はいない。録音図書でも「あかご」と読んでいる。そのように「愛情の庭」に書いた文章の中にも「死語」となっているものが多い。
≪フロアーからの質問≫
Q 聾者との交流はあったか。片山校長と大河原先生はあまり合わなかったという話だが、その理由は。
A 東京盲学校ではない。和歌山盲唖学校へ行って聾児がいるのに驚いた。 よく分からないが、片山先生はおおらかで朗らか。大河原先生は几帳面。
Q 点字での学習について。
A 視力もやや回復し、教科書の字も読めて普通の生活には困らなかったが、点字は触って読んだ。東盲の授業は全て点字であった。
Q 京都府盲は昭和7年から、南山小学校は8年から「弱視教育」を始めているが、東盲は全て点字だったのか。
A 小さい子供たちの国語の教科書などは、一部が墨字であったかもしれない。
Q 東盲は自治寮であったと聞くが、当時はどうだったか。
A 全体主義で統一されていた。寮母さんはいなくて舎監の指導方針で決まった。
Q 平塚盲唖学校時代は?
A 空襲が激しく大変だった。聾児には床を踏みならしてそのことを知らせ避難した。
≪読者の感想≫
「愛情の庭」は、単なる日記ではない。大変奥の深い精神的な本であるので、復刻版が出たら是非一読されたい。
友だちとしてお付き合いしているヘルパーさんに勧められて、自分の昔から今までのことを書き残してみたいと思った。
昭和18年4月から東京盲学校中等部音楽科に行った。19年4月から21年3月まで富山県の宇奈月温泉に疎開した。平塚盲唖学校には、東京から来られた優秀な先生が多く恵まれていた。
小学部1年の中頃には、点字の読み書きが十分に出来た。小6の時、教育勅語を点字で書く競争があり、学校で1番になった。だから、今でも読み書きには困らない。小さい時の基礎練習が大切。今はテープやCDがあるが、それだけでは不十分。やはり自分で読んで確認することが大切。点字が読めれば、自分で何でもできるし、どこへでも行ける。中途失明の方が点字を覚えるのは大変だが、苦労するのも生きた甲斐があるというもの。
東盲ではなかなか授業が厳しかった。特に楽譜などは少ないので、片手で読んで片手で書き写し、覚えていかないとレッスンを受けられなかった。
疎開は温泉旅館を借り切って泊まった。中等部5・60人で1階が男子、2階が女子であった。音楽の授業は、ピアノとお琴のみで廊下で授業を受けた。炊事の手伝いもした。山芋の蔓や山葡萄なども採ってきて食べた。昭和20年5月頃から音楽の授業ができにくくなった。温泉に来ている人達から「非常時に音楽などしている者は非国民だ」と言われるようになったからだ。そこで、お琴は爪なしで練習した。8月15日、これで、電気をつけても安心なんだと思った。その後、間もなく宮城道雄が、ラジオでお琴を弾いているのを聴いた。これで「音楽ができるんだ」と大変喜んだことを覚えている。
師範部の入試は大変簡単だった。「疎開地で何をしていましたか」と聞かれただけである。21年4月から東京で、ピアノや声楽もできるようになった。夜10時頃まで自由に練習できて大変嬉しかった。教材などは、印刷の係りがいて先輩がしていた。また、寄宿は自治寮で生徒が全て計画を立て運営していた。
24年、浜松盲学校に就職した。音楽の授業は皆が楽しめる音楽を心掛けた。先ず、教師から楽しむことが大切である。「よく遊び、よく歌い、よく合奏する」ことに主眼を置いた。ハーモニカ・バンドを作り、全国大会で優勝したこともある。合唱や合奏は、相手のことを思いやり、相手に合わせる心が育つので大変よい。
小さい頃、遊んでいて「危ない」と言われたことはない。小さい頃、少しぐらい怪我をしてもよいから十分に遊んだ方がよい。その方が自主性が育つ。最近の子どもは、いつも管理されていて大変である。
≪フロアーからの質問≫
Q 聾児との交流はあったか。また、それは意図的になされていたか。
A 聾児とは仲良くしていた。よく本を読んでくれたりした。当時は口話法で、少しゆっくり話せば聾の人にも分かった。学校では、分離教育だったので、寮の中で生徒同士自由に交流していた。ただ、遠足などは一緒に行った。
Q 聾児との交流について考えを伺いたい。
A 専門教育の面からは、学校は別の方がよいと思うが、その他の場で多くの交流があるとよいと思う。
Q 久本玄智先生のことについて教えていただきたい。
A 久本先生には、ピアノを習った。明るくて大変よい先生だった。先生はお琴が専門だったが、洋楽に近かったように思う。
初めにウイズの紹介DVDを7分程度視聴した。視覚障害に知的障害を併せ持つ利用者が多い施設での作業風景が中心であった。この中で、特に点字印刷にいろいろな工夫が見られたが、斯波氏が「作業の工程を工夫し、それぞれの能力を生かす仕事を分け合って行えば、十分に生産性を高めることが出来る」と強調された言葉が心に残った。
次に浜松の自慢ということで、石川倉次、中村京太郎、河相洌、島津祐策氏などの話があった。河相氏は、元浜松盲学校の職員、日本で第一号の盲導犬を使用された方(多くの著書が出版されている)。また、島津氏は宮城道雄の弟子で、天皇の前でも演奏している。やはり浜松盲の元職員。ヤマハ楽器でピアノの組み立てと調律を学び、視覚障害者の職業開拓に努めた。
中村京太郎氏は、欧米の思想に基づく人権活動家であり、点字毎日の初代編集長。また、盲学校弁論大会の創始者。特筆したいのは、点字投票の実現である。普通、点字投票は、昭和3年の衆議院議員選挙からだと思われているが、それに先立つこと2年。大正15年には、浜松の市議会選挙で実施されていた。これは世界初の快挙である等々、「先人のやってきたことを掘り出し、後に伝えることが大切」と、点字という文化の大切さを熱く語られた。
記念写真撮影後、歓待下さった浜松視覚特別支援学校の校長はじめ職員の方々に感謝すると共に、本会の発展に思いを馳せつつ帰りのバスに揺られた。
六つ星の光尋ねて曳馬路を緑の風に
本文ここまでです。
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Copyright 2015 日本盲教育史研究会, All rights reserved.
英語:Japan Society on the History of Blind Education
エスペラント:Japana Societo pri la Historio de Blindul-Edukado(ヤパーナ ソツィエート プリ ラ ヒストリーオ デ ブリンドゥール・エドゥカード)
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